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古代ギリシャの数学

2017/10/14
2017/12/14

1. 三平方の定理

1.1. 三平方の定理

図1: 三平方の定理

直角三角形の直角を挟む辺(2つある)の長さを $a$、$b$、そして斜辺の長さを $c$ とすると、
\[ \begin{equation} c^2 = a^2 + b^2 \label{eq:theo1} \end{equation} \] この関係はピタゴラスの定理として名高い。

1.2. 定理へのヒント

図2: 三平方の定理の特殊ケース

図2左は身近にありそうな幾何学模様である。ABCDは1辺の長さが2の正方形とする。ここに含まれる正方形EFGHの面積は2である。
探究心を持つ者は、この問題をヒントに次の問題(図2右)へ進むと思われる。今度は1辺の長さが3の正方形である。このケースでは正方形EFGHの面積が5であることを見出すのはさほど難しくはない。
様々なケースが試され、やがて式($\ref{eq:theo1}$)を予想するだろう。(あるいは、いろいろと図を書いている中で、図3を見つけるかも知れない)

1.3. 直感的な証明法

次の図3は(多分)最も簡単な証明法である。
そして(多分)ピタゴラスはこの証明法を使ったであろう。(初等的で分かり易いから...)

図3: 三平方の定理の直感的な証明

普通の人はこの証明法で満足するであろう。
しかし... 四角形EFGHは本当に正方形なのか? どうやってそれを証明するのか?

こうした僅かな論理の穴を突いて進んで行ったところが古代ギリシャ人の凄さである。

幾何学の訓練を受けている我々であれば、三角形の合同条件と三角形の内角の和が180度であることを使って証明するであろう。しかし当時はどうか?

殆ど自明に近い事柄をどのように証明するのか? そのためには、それよりも更に自明な事柄を整理し、論証において許される推論規則を定める必要がある。この努力が公理主義に基づく新しい幾何学=ユークリッドの『原論』を生み出したと考えられる。

なお、オマール「ピタゴラスの定理」によると古代バビロニア人は(ピタゴラスよりも1000年以上も前に)三平方の定理を知っていた。$\sqrt{2}$ の非常に詳しい値の記録が存在し、さらにピタゴラス数(3辺全てが自然数となる直角三角形の辺の組)を求める方法さえも知っていた。彼らは高度な算法を発達させていた、と言う。しかしギリシャ数学の特徴は、学問が実学から開放されて純化して行ったところにある。彼らは議論を好み、相手の論理の弱点を突きながら、熾烈な議論を戦わせていた。このような精神的な風土が新しい数学を生み出したのである。

1.4. ユークリッドによる証明法

1.4.1. 証明 (1)

図4: ユークリッドの証明

補助線AEを辺CFと平行に引く
証明のポイントは

図形の移動が使われていないことに注意。

注釈: ユークリッド
BC3世紀 (ユークリッドについては殆ど分かっていない)
『原論』

1.4.2. 証明 (2)

三角形ABCは直角三角形である。斜辺BC上に点Dを、ADBDに垂直となるようにとる。すると、三角形ABCDBADACは互いに相似である。これらの面積を各々 SABCSDBASDAC とすると SABC = SDBA + SDAC

BCABAC に、何か面積を持つ図形が貼り付けられているとし、しかも、それらは相似図形とする。(図では長方形が貼り付けられている)
貼り付けられた図形の面積を各々 SBCSBASAC とすると、次の関係を満たす比例定数αが存在する。
SBC = αSABC
SBA = αSDBA
SAC = αSDAC
このことから
SBC = SBA + SAC
を得る。(貼り付けた図形が正方形であれば三平方の定理になる)

図5: 比例に基づくユークリッドの証明

図6は『原論Ⅵ』(HEATH[16],p.269)命題31に添えられている。

この証明法の特徴は非常に直感的な理解が可能で、しかも主張されている内容は広く、正方形だけではなく、多様な図形に適用できることにある。

『原論Ⅵ』では辺に貼り付けられた図形を rectangle とか oblong とか言わずに figure と言っている。もっと一般的な図形をイメージして構わないよ... と言外に言っているのであろう。

『原論Ⅵ』の中では命題31に至るプロセスは煩雑なのであるが、ここではエッセンスだけを紹介している。

1.5. その他の証明法

次の証明法は『原論』の中には明示的に示されていないが、『原論Ⅵ』に載っている幾つかの定理より得られる。この証明法はいろいろな本の中で紹介されている1

図6: 相似に基づくユークリッドの証明

三角形$\mbox{ABC}$、三角形$\mbox{DBA}$、三角形$\mbox{DAC}$は相似である。従って
$\overline{\mbox{AB} }:\overline{\mbox{BD} }=\overline{\mbox{BC} }:\overline{\mbox{AB} }$
$\overline{\mbox{AC} }:\overline{\mbox{CD} }=\overline{\mbox{BC} }:\overline{\mbox{AC} }$
従って
$\overline{\mbox{AB} }^2=\overline{\mbox{BD} }\times\overline{\mbox{BC} }$
$\overline{\mbox{AC} }^2=\overline{\mbox{CD} }\times\overline{\mbox{BC} }$
故に
$\overline{\mbox{AB} }^2 + \overline{\mbox{AC} }^2 = (\overline{\mbox{BD} }+\overline{\mbox{CD} })\times\overline{\mbox{BC} } = \overline{\mbox{BC} }^2$

ピタゴラスの定理のついて様々な証明法が考案されている。しかしその目的が、ピタゴラスの証明法の推測にあるならば、数式を使った証明は除外する必要があろう。代数学の知識を持つ我々にとっては簡単な式の変形であれ、式の概念を知らない当時のギリシャ人にとっては、式の変形と同等な推論を進めることは至難の業であったろうから...


注1: 例えば、ヒース[17]、Ball[8]など

2. ピタゴラス学派

2.1. ピタゴラス教団

Ball[8]の紹介

ピタゴラス (569BC-500BC)1
569BC Samos に生まれる
Pherecydes 、アナクシマンドロス(Anaximander)に師事する
エジプトなどいろいろ旅行
Samos で塾を開いたが成功せず。この後イタリアの Croton で学校を開く。これは大成功。

ピタゴラスは受講生を2つに分けた:

3年の受講の後に、教団員資格2

教団の戒律は厳しい:

ピタゴラス教団は、やがて、強い政治的な影響力を持つようになった。

501BC に暴動が発生し、教団の宿舎が焼き討ちにあう。(ピタゴラス教団は支配者側と見られていたんでしょうね...)
このとき、多数の教団員が殺された。(図書類も消失したでしょうね...)
ピタゴラス自身はこの時の暴動から逃れたが、500BCに他の暴動で殺された。

ピタゴラス教団は、各地に散らばった弟子たちによって、この後100年から150年も栄えた。
秘密主義は徐々に薄らいできた3

注釈: 受講生であること、あるいは受講を修了したことは一種のステータスだったのだろうね。現代においても〇〇大学卒がステータス扱いされるのと良く似ているのではないか? 学閥を作り、政治家との結びつきを作り... という所も似ている。今と違う所は、当時は黒板もチョークもなく、プリントを配ることもできず、教科書も与えられない。当然ながら多人数を相手に教育はできない。家庭教師みたいに教えていたか、せいぜい数人を相手にしたセミナーのようなものだったか? 高額の受講料が発生し、受講生も必然的に富裕層に限られたであろう。


注1: 諸説あり。582BC-496BC(Wikipedia 「ピタゴラス」)。570BC-495BC(Wikipedia “Pythagoras”)。
注2: ディオゲネス[11]は5年であるとしている
注3: Ball[8]は、この例として、プラトンがピタゴラスの本を友人から取り寄せていることを挙げている。

2.2. 公理的幾何学の源流

文献[4]によると、古代バビロニア人(1800BC頃)遺跡(粘土板)には、1辺が1の正方形の対角線の長さとして 1.414213 が刻まれている。さらに、他の遺跡には15個のピタゴラス数が刻まれている。中には(4601,4800,6649)のような大きな数字が含まれている。しかも、それらの数字は直角三角形の角度で整理されている。このことは彼らがピタゴラス数を与える公式を知っていたことを意味する。

文献[24]によると、紀元前8世紀ごろになると、ギリシャ人はイオニア地方に進出し、都市を形成していた。彼らはメソポタミアやエジプトの文化と遭遇する。彼らの或る者たちは、この地方で発達していた科学、天文学、算術、幾何学に触れ、それらをギリシャに持ち込んだ。そうした人たちの中にタレスやピタゴラスがいた。(タレスはイオニアのミレトス出身、ピタゴラスはイオニアのサモス島の出身である)

この頃にはギリシャと彼らの進出地には多くの都市が生まれていた。都市住民の多くは商業に従事していたと考えられる。読み書き算術のニーズは高いので、多くの私塾が生まれたと思われる。都市は市民(富裕層だと思われる)による議会制度の下で運営されていた。リーダー(私塾の先生を含む)を目指すためには、さらに弁論術、教養、教養を示す学歴が必要だったろう。ミレトスでタレスが開いた学校、イタリアのクロトンでピタゴラスが開いた学校は、そうした「高等」学校の一つであったろう。

タレス1は、天文学に優れ、日食を予言し、人々を驚かせたと言う。また幾何学的命題のコレクションを持っていたようである。それは(今日の目で見れば)公理に近い命題から、定理のようなものまで含まれ、整理はされていないらしい。それらの中には、今日、タレスの定理と呼ばれているもの(円に内接する三角形で1つの辺が円の中心を通るものは直角三角形であるとする定理)も含まれている2

ピタゴラスは「ピタゴラスの定理」で有名で、彼に関する多くの伝説を残している。それらの伝説は矛盾だらけで、彼の人物像は謎に満ちている。確実に言えることは、彼が東方の神秘をまとった新興宗教の教祖で、その教義の中心に「数」があったと言うことぐらいであろうか。

しかし、どこまでが彼ら(タレスやピタゴラス)のオリジナル商品なのか、あるいは輸入品の再販なのか分からないところがある3。幾何学がギリシャにしかなかったと信じる理由はない。むしろ、この時代のギリシャは文化後進国なので、輸入品の再販に努めていた可能性がある。

さらにピタゴラスに関して言えば、どこまでがピタゴラス自身のものでで、どこまでがピタゴラス学派の成果なのか、これもはっきりしない。彼らは、はっきりしない仕組みの中で活動していたのだから...

Ball[8]は次のピタゴラスの言葉を紹介している:

a figure and a step forwards, not a figure to gain three oboli."
("oboli" とはお金の単位である)

ピタゴラスは学徒に成果を共有することを厳しく求めたとされる。従って先の言葉は次のように言い換えてもよいと思われる。「学問の発展のために研究するのであって、お金とか名誉のためではない」

初期のピタゴラス学派の知識の殆どが輸入品であったとしても、自分たちで知識を生み出そうとする意欲を教団の組織や戒律の中に汲み取ることができる4。そうであれば彼らの論証法は徐々に鍛えられるだろう5。やがて多数のオリジナルな知識が集積していったと思われる。

論証は誰のために何のために行われるかによって求められる厳密性のレベルが異なる。古代エジプトや古代バビロニアでは実際的なレベル(行政問題の解決に必要なレベル)で問題が解決されればよく、このレベルでは、直感的に命題が正しいと思えれば充分であったと考えられる。このレベルで様々な定理が発見された。三平方の定理はそのようなものであったろう。他方ギリシャでは論証がアカデミックなレベルで行われるようになる。彼らにとっての論証は、知識を他人に示すためのものであったり、論敵を論破するためのものであったりした。

古代ギリシャの哲学者たちは、探究心に満ち溢れ、万物の起源を探ろうとした。例えばタレスは万物の起源は水であるとし、ピタゴラスは数であるとしたように。そうした傾向は、幾何学的命題にも向けられたと思われる。彼らが多数の幾何学的命題を雑然としたまま放置するとは思えない。ある命題は他の命題から演繹できる。すると、より根源的な命題を選びだそうとするだろう。この幾つかの命題があれば、残りは全てそこから派生するのだと...

ピタゴラスが作り上げたとされる教団の仕組みこそが、数学を発展させたのではないかとも思える。単なる宗教団体であれば、あれだけ多くの学徒が集まって来ないだろう。彼らにとって魅力ある組織だったに違いない。神秘的な装いは経営者としてのピタゴラスの知恵だったのかも知れない。星型のシンボルマークによる帰属意識。学派の中での徹底した知識の共有。人脈などなど。拠点を失い、教祖なきあとは宗教色と秘密主義は薄れ、ピタゴラス学派の徒としての結束が残ったはずである。(あるいは、今風に言えば、数学会的な組織として残ったのかも知れない)

ピタゴラス学派は、彼らだけが見ることのできる標準テキストを持っていたと考える。なぜなら、これこそがピタゴラス学派の知的財産であり、これなしには知識の共有は困難で、後継者を養成することはできないからである。さらに何を基にして証明したらよいのかさえも分からない。証明というパズルにおいて、標準テキストはルールブックでもあるから。

標準テキストは最初の頃は雑然とした命題の寄せ集めであったろう。新しい知識が追加され、数が増えるに従って徐々に体系化され、そしてついには『原論』のスタイル、すなわち、定義、公理、命題、証明で整理された公理主義の標準テキストが誕生したであろう。そして、成長に従って、その後も改訂が続いたであろう。ユークリッドの『原論』は、その最後のバージョンではないかと筆者は考える。残念ながら、これはあくまで筆者の推測であり、それを裏付ける資料を持たない。

ヒポクラテス(470BC頃-410BC頃)は正式の教団員ではない。しかし、彼は三平方の定理の第二証明を知っている(付録「ヒポクラテス」)。さらに彼は、証明のルールを心得ている。彼は標準テキストの写本を持っていた可能性が高い。ヒポクラテスの時代になると、ピタゴラス学派は各地に分散していて統制が働きにくくなっている。そのため(門外不出のはずの)標準テキストの写本が手に入りやすくなっていたと考えられる。

プラトンがプラトン学園を創設する以前は、ピタゴラス学派が数学に関する主たる情報源だったはずである。ピタゴラス学派はまだ健在で、多数の数学者を生み出している。テオドロス、アルキタス、テアイテトス、エウドクソスなどがその中に含まれる。ピタゴラスについて多くの逸話が残っていることを考えると、ピタゴラス学派のブランド力は高かったであろう。数学を学びたくば、ピタゴラス学派の先生に付くべしと。

ソクラテスは世間で評判の賢者たちに会って問答を仕掛け、彼(賢者)は、自分が知っていると思っていることを、実際には知っていないことを自覚させたと言われる。この話が真実なら、問答の相手に、当時の著名なビタゴラスの徒が含まれていなかったとは考え難い。彼(ビタゴラスの徒)を X とする。どのような問答が交わされただろうか想像してみる。

ソクラテス: あなたは何に関心を持っているのか?
X: 幾何学です
ソクラテス: 幾何学とは何か?
X: 図形、例えば三角形に関する学問です。
ソクラテス: 三角形とは何か?
X: 3点を直線で結んだものです。(地面に三角形を描く)
ソクラテス: 点とは何か? 直線とは何か?
X: 点とは大きさを持たないものです。直線は幅を持ちません。
ソクラテス: でも君の描いた点は大きさを持ち、線は幅を持っているではないか?
X: ...

どのように考えれば幾何学を正当化できるか? プラトンのイデア論はそのようなものとして受け止められる。(現代風に言えば)我々が知覚するものはイデアのインスタンスであると。イデアこそが存在の根源であり、幾何学はイデアを扱っているのだと。プラトンはユークリッドの『原論』に哲学的な基礎を与えたと言える。

注意: 実際にはこの逆の側面が強い。幾何学がプラトンのイデア論を支えたと考えられる。プラトンの関心はあくまでも「政治」にあり、「幾何学」は彼の哲学の正当化のために利用されているだけである。


注1: Thales: 625BC頃から547BC頃 (Wikipedia JP)、c.624BC – c.546BC (Wikipedia EN)、640BC-550BC(Ball[8])
# c.624 is circ. 624 (around 624)
注2: Ball[8]
注3: ヒース[17]は、ピタゴラス音階だけはピタゴラスの発見と信じてよいと述べている。この発見はピタゴラス教団の教義の基になった。ピタゴラス音階の問題は付録「ピタゴラス音階」に載せておく。
注4: ピタゴラスは旅行先から単に知識を持ち帰ったのではなく、知識を生産し蓄積していくノウハウを学んだのではないかと思える。古代オリエントやエジプトでは幾何学や天文学が宗教施設(祭壇ちや墓)の建設と密接に関わっていた(文献[26])。神官たちの組織が存在し、知識を共有することによって、知識の生産を容易にし、知識の継承を確実にしていたと考えられる。ピタゴラス教団を好意的に解釈すれば、知識生産組織としての神官組織の真似事である。
注5: ピタゴラスが持ち帰ったものは、バラバラな、表面的な、充分に理解されない知識の集積であったろう。そうした知識を彼らは組み立て直し、彼らのやり方で理解し直さなくてはならない。この作業も彼らを鍛えたはずである。

3. 無理数の探求

3.1. 無理数の発見

無理数の存在を発見したのはピタゴラス学派(宗教的儀式を重んじたのでピタゴラス教団とも言われる)であると言われている。彼らは狂信的な自然数信奉者である。彼らが「万物は数である」と言うときの「数」は自然数である。それ故、彼らの自慢の三平方の定理に現れる数は自然数で表現できなくてはならない。

直角二等辺三角形の場合、直角を挟む辺の大きさを$1$にした場合には、明らかに斜辺は自然数にならないが、それは尺度の単位の取り方が悪いからであって、いかなる三角形においても、適当な尺度の単位を選べば、全ての辺が自然数になるはずであると考えた。

彼らはそれを見つけようとした。しかし困難を極めた。($3$,$4$,$5$)の組みや($5$,$12$,$13$)の組のように見つかる場合もあるが(こうした組はピタゴラス数と言われている)、直角二等辺三角形のような一番簡単なケースですら困難であった。そして、ついに直角二等辺三角形の辺は自然数にはなりえないことを発見した。ピタゴラス教団の教義の根幹が崩れたのである。

$\sqrt{2}$ が無理数である(つまり分数では表せない)ことは中学校で習うようである。(私の時代はそうであった)
そのときの証明法は背理法を使った: $\sqrt{2}$ が仮に $a/b$ ($a$,$b$ は自然数)と書けるものなら既約な $a$,$b$ の対が存在するはずで
\[ a^2 = 2b^2 \]
従って $a$ は $2$ の倍数である(なぜなら$a$が奇数なら$a^2$も奇数になるから)。これを $2k$ と置いて
\[ 2k^2 = b^2 \]
となる。従って $b$ もまた $2$ の倍数となり、$a$,$b$ を既約とした前提に反する。
筆者はこの論法に感銘した一人で、強く印象に残っている。

$\sqrt{2}$ が無理数であることを発見したのはピタゴラス学派であると言われている1。彼らはどのように発見したのであろうか? 記録がないので推測しかできない。当時の彼らの道具立てで可能なことを考えてみる。
彼らは

ことを頭に入れておこう。数式を知らないので、彼らは図形を描きなから推論を進めていったと言われている。


注1: ピタゴラス学派のヒッパソスだと言われている。他方でこの説の根拠が薄弱であるとの意見もある。(英語版 Wikipedia: Hippasus)
注2: 全ての量が自然数に還元されると信じていたと言う方が正確だろう。分数はどう考えたか? 分母と分子が自然数だから良しとしたか、あるいは適当な自然数を掛ければ自然数になるから良しとした、でしょうね...。

偶数・奇数の概念は昔からかなりポピュラーなので次のことは経験的に(数学者であれば常識として)分かっていたと思える。

そして、これらは容易に証明できる。

さて、まず最初に考えられる初等的なアプローチは次の直角二等辺三角形であろう。(図7左)

仮に、全ての辺が自然数で表される直角二等辺三角形が存在するとする。そのようなものの中で 一番小さなものを選ぶ1。(図7左)

図7: $\sqrt{2}$ が無理数であることを示す図

ここに $a$,$b$ は自然数である。


注1: 「一番小さなもの」との言い方をしたのは「既約」の概念を必要としないから... そして、この方法での定理の証明には「一番小さなもの」の方が分かりやすい。

$a^2$ (ギリシャ人の言葉で言えば、辺 BC を辺とする正方形の面積)は偶数であるから、$a$ は偶数のはずである(∵ $a$ が奇数なら $a^2$ は奇数になるから)。ならば BC の中点を M としたとき(図7右)、MC は自然数である。三角形 ACM は直角二等辺三角形であり、全ての辺が自然数で表され、一番小さいと仮定した直角二等辺三角形 ABC よりも小さい。このことは最初の仮定に反する。

現在、本や Web 上にある幾何学的証明は本質的に図7に等価なものが多い1。しかし必要以上に分割を続けている。なお背理法自体は古代ギリシャにとってはかなりポピュラーな論法であったはずである。(背理法は当時の哲学者が好んで使った論法である)

別の証明図も見かけたので載せておく(図8)2
図7と同様に $a$、$b$ が共に自然数となる一番小さな直角二等辺三角形とする。

図8: $\sqrt{2}$ が無理数であることを示す他の図

PBP=AB となるようにとる。すると PC は $a-b$ で自然数となる。点 Q
PQBC と垂直となるように辺 AC の上にとる。すると三角形 PCQ は直角二等辺三角形となる。従って PC=PQ=QA 。これから CQ もまた自然数であることが分かる。つまり三角形 ABC がすべての辺が整数となる一番小さな直角二等辺三角形であるとする仮定が破れたことになる。

図8は図7よりも遥かに複雑であるが、証明において偶数・奇数の攻め方を不要とする。


注1: 例えば、カッツ「数学の歴史」
注2: 例えば、文献[12]、Wikipedia: “Square root of 2”([13])。
HEATH[16](p.19)が元ネタらしい。いわゆるユークリッドの互除法の話の中での例題で、互除が有限で終了しないことを示すのに図8が使われている。『原論』を見ると、数を表現するのに magnitude と number で実数と自然数を区別している。互除法では magnitude を magnitude で割る演算を繰り返す。ただし我々が行うような実数の割り算ではない。$a$ を $b$ で割った商とは、 $nb \leq a<(n+1)b$ となる $n$ であり、剰余とは $a - nb$ である。互除の繰り返しが終了しないならば共通の単位を持ち得ないので無理数であるとの論法に使われる。

3.2. テオドロス

フラトンの『テアイテトス』の中に次のくだりがある。

テアイテトス: それは[ある種の]平方根について、すなわち3平方尺の正方形や5平方尺の正方形などの辺にあたるものについて、私たちのためにこのテオドロスさんは図形のあるものを描きながら、それは長さのままで計ると1平方尺の正方形の辺とは同じ単位の尺度では計りきれないものであるということを明らかにされていって、そして17平方尺の正方形の辺までをおのおの1つ1つ取り出してそういうふうにして下すったのですが、それまできて、どうということはありませんでしたが、それを止められたのでした。そこで私たちの間には何かこんなふうな考えが浮かんだのです。それはこの種の平方根というものは無限に多くあるものだということが明らかなものですからして、これを1つに統括することを試みようという考えなのです。つまりこの種の平方根を我々が全部その言い方で呼べるようになるものを見出そうとする試みなのです。

プラトン: 『テアイテトス』 (文献[6])

ちょっと解説しておく。
テオドロスはピタゴラス学派の数学者で、プラトンの数学の師と言われている。彼は、いい子(テアイテトス)が居るよと、プラトンにテオドロスの生徒を紹介する。さあプラトンさんに話してごらん...

このくだりは有名らしくて、無理数を論じている多くの文献で紹介されている。その際の主な論点は

もちろんテオドロスはどのようなアプローチを試みたのかが最大の関心事である。

テオドロスは$\sqrt{17}$を証明できなかったとの説がある2。(しかも支配的な説らしい)
そうした説は、ある種の証明が$\sqrt{17}$で行き詰まることを根拠としている。
しかし、それは誠に奇妙な話である。テアイテトスは、一般的な枠組みによって、$\sqrt{n}$問題にアプローチする計画をプラトンに披露しているのである。$\sqrt{17}$を解決できなくて、どうして$\sqrt{n}$問題に進めるのか?

テアイテトスは説明の中で「この種の平方根というものは無限に多くある」と言っている。
「この種」とは何を意味しているか? この日本語の訳であれば、無理数になる平方根と解釈される。そうであれば彼らは何か証明を(しかも簡単な証明を)持っていたことになる。
筆者は証明を模索してみたが、(当時の彼らにとっては)簡単な方法はなかなか見つからない。そこで英文の “THEAETETUS” を探した。(残念ながら英語しか分からないから...)

ここの部分の英訳は次のようになっている。

“THEAETETUS: Theodorus was writing out for us something about roots, such as the roots of three or five, showing that they are incommensurable by the unit: he selected other examples up to seventeen—there he stopped. Now as there are innumerable roots, the notion occurred to us of attempting to include them all under one name or class.”

Plato: “THEAETETUS” (文献[7])

読めば分かるように、英文では考察の対象である $\sqrt{n}$ が無限に多くあると言っているに過ぎない。

不思議なことに文献[29]では、テアイテトスではなくテオドロスがプラトンに説明したと(確信的に)言っている。世の中にはそのような版があるのかも知れない。


注1: もっとありそうな可能性: テオドロスは $\sqrt{2}$ の問題を、$\sqrt{3},...,\sqrt{17}$ と切り離して、先に講義で済ませていた。受講者(テオドロスの生徒たち)のレベルを考えると $\sqrt{2}$ 問題の解説を避けて通るわけには行かないだろう。無理数の存在を示し、その持っている意味をしっかり解説しておくことは教育者としての当然の行為である。(筆者がテオドロスの立場てあれば、当然にそのようにする。その際に、図7だけでなく図10も教える。これを教えておけば、優秀な子は自力で$\sqrt{3}$に進むのである。)
注2: 本の中ではこの問題を扱っているものとしてはヴェルデン[27]がある。ネット上では、例えば、Wikipedia: “Irrational number”、また文献[12]など。

3.3. $\sqrt{n}$ ($n = 2,3,...,17$) の証明

先に紹介した平方根の話は、テオドロスが生徒たちに講義した話をテアイテトスがプラトンに説明しているのである。従って充分に易しい、現在の中学1年生程度にも分かるような内容だったと考える必要がある。(プラトンの生徒たちは秀才の集まりだったとしても、当時の教育水準と教育環境の悪さを考慮する必要がある)

以下、それを再現してみる。

図7や図8のように直角三角形から出発した場合、$\sqrt{3}$,$\sqrt{5}$,... へと進みづらい。良いアイデアが出てこないのである。原因は問題にしている図形(直角三角形)に証明法が強く縛られているからである。テオドロスは$\sqrt{2}$問題を、拡張可能な方法で解いたはずである。それは何か?

発想を変えてみる。$\sqrt{2}$問題は、面積が2倍の関係にある正方形を、辺の大きさが自然数と言う制約の下で見つける問題でもある(図9)。

背理法を使う。仮に見つかったとする。その中で一番小さな自然数の組を ($a$,$b$) とする($a^2=2b^2$)。

図9: 左の正方形の面積が右の2倍

$a^2$ は偶数だから、$a$も偶数である(∵$a$も奇数なら$a^2$も奇数になる)。従って左の正方形は中央で4分割できて(図10)

図10: 左の正方形の1/4の面積が右の1/2

当初の仮定に反して面積が $2:1$ の関係にある ($a$,$b$) の組より小さな組 ($b$,$a/2$) が存在することになる。

この方法だと容易に$\sqrt{3}$問題に拡張可能である。面積が $3:1$ の2つの正方形を並べて書けば良いだけだから...
これらの1辺を$a$と$b$とする。一番小さな組としてよい。$a^2$ は3の倍数である。

現代の我々であれば、このことから直ちに $a$ は3の倍数であると結論するであろう。我々は $a^2$ が3の倍数であれば $a$ も3の倍数であるであることを知っているから...
彼らは数字大好きな連中である。経験的事実としては、我々と同じ認識でいたはずである。もしも、後に述べる命題Ⅶ.30を証明に使って良いならば、$\sqrt{3}$だけではなく、$\sqrt{p}$ ($p$は素数)についても(背理法によって)直ちに無理数であると結論したであろう。しかし、そうはしなかったところが素晴らしい。

テアイテトスは、テオドロスが$\sqrt{3}$,$\sqrt{5}$,...,$\sqrt{17}$まで順に証明したと説明している。このことは、命題Ⅶ.30に頼らないで$\sqrt{3}$が無理数であることをテオドロスが証明したことを意味する。つまり
\[ a^2=\mbox{$3$の倍数}\qquad \Rightarrow \qquad a=\mbox{$3$の倍数} \]
あるいは(同じことであるが)
\[ a\not=\mbox{$3$の倍数}\qquad \Rightarrow \qquad a^2\not=\mbox{$3$の倍数} \]
が正しいことを証明した。

どのように証明したか? 偶奇の問題を素直に拡張したと考えるのが自然である。

現代の我々であれば式を変形して証明する。しかし彼らは幾何学を補助的に使ったであろう。どのような図形を描いたか? 考えられるのは図11である。

図11: $a^2$ を3で割った剰余

これだと式を展開する必要はなく、$1$及び$4$を$3$で割れば済む。

$\sqrt{5}$ の場合には
\[ a\not =\mbox{$5$の倍数}\qquad \Rightarrow \qquad a^2\not =\mbox{$5$の倍数} \]
を示せば済むのであるが、確認に必要なのは$1^2$,$2^2$,$3^2$,$4^2$を$5$で割った剰余だけである。これも容易にクリアされていく。

テアイテトスの説明からはテオドロスが$\sqrt{6}$を調べたか否かは分からない。しかし、これだけの成功を収めて$\sqrt{6}$に手を付けなかったとは考え難い。

参考のために $n =2,..,17$ の範囲で
\[ k^2 \mod n \qquad \mbox{($k=1,..,n-1$)} \]
の結果を載せておく。最初の列が $n$ の値で、それに対する計算結果が同じ行に表示されている。ここに mod とは割り算の剰余を意味する演算子である)

 2:  1
 3:  1  1
 4:  1  0  1
 5:  1  4  4  1
 6:  1  4  3  4  1
 7:  1  4  2  2  4  1
 8:  1  4  1  0  1  4  1
 9:  1  4  0  7  7  0  4  1
10:  1  4  9  6  5  6  9  4  1
11:  1  4  9  5  3  3  5  9  4  1
12:  1  4  9  4  1  0  1  4  9  4  1
13:  1  4  9  3 12 10 10 12  3  9  4  1
14:  1  4  9  2 11  8  7  8 11  2  9  4  1
15:  1  4  9  1 10  6  4  4  6 10  1  9  4  1
16:  1  4  9  0  9  4  1  0  1  4  9  0  9  4  1
17:  1  4  9 16  8  2 15 13 13 15  2  8 16  9  4  1
ここから、$n=2,3,5,6,7,10,11,13,14,15,17$ (これらは自乗数が含まれない数であることに注意しよう)に対して、$\sqrt{n}$が無理数になることが証明される。

テオドロスは $n=8,12$ をどのように処理したか?
$n=12$ を例に取ると
\[ a^2 = 12b^2 \]
を扱うことになる。これは
\[ a^2 = 3(2b)^2 \]
となる。そして、これを満たす自然数解の組($a$,$2b$)は存在しない。
つまり、$n$に自乗数が含まれる場合は、同じ論法を適用したと考えられる。

テオドロスは何故 $n=17$ で止めたのだろうか?
「もう見通しは立った。このなの続けても意味がない!」と考えたのでしょうね...

現代の我々であれば、コンピュータを使えば、この程度の計算は(プログラミング時間を含めて)10分もあれば足りる。完全手計算であっても(アラビア数字のお陰で)1日もあれば充分であろう。ギリシャ人はアラビア数字を持たなかったので、手計算は大変であったろう。しかし簡単な計算の道具は持っていたのではないかと思われる。このケースでは小石をマス目に並べれば足りるのだから1

テオドロスはこの後、何をしたか?
当然、一般的な証明に進んだでしょうね。そして証明に成功したと考える。詳しくは付録「『原論』第Ⅶ巻の成立」を見よ。

テオドロスはテアイテトスたちに $n=17$ まで証明した後、何を話したか?
テオドロスは一般的な $n$ についての証明を持っていたが、相手を考えて結果だけを話した。(教育的配慮である。一般的な証明は難しすぎる)


注1: 小石を使わなくても、自乗数の列(1,4,9,16,25,36,49,...)は、奇数列(1,3,5,7,9,11,13,...)を加える事によって次々に得られる。テオドロスは、この程度のことは知っていたはずである。

3.4. テオドロス問題

さてテオドロスはテアイテトスに平方根の問題を研究課題として与えた。テアイテトスはプラトンに方針を説明している。
彼の言っていることを(現代の言葉で)要約すると:

数概念が拡張されたのである1

この説明では、非平方数の平方根は無理数であることが暗黙の前提となっている。証明するには以下に述べる命題Ⅶ.30が何処かで使われるはずである。これはどのようにすれば証明できるのだろうか?

我々の目標は
テオドロス問題 $n$ が平方数ではない場合には
\[ \begin{equation} a^2 = n b^2 \label{eq:thea} \end{equation} \] は自然数解 $a$、$b$ の組を持たない。

以下では縦棒「$\mid$」を使って「$a\mid b$」を、「$a$ は $b$ を割り切る」の意味に使う。また 「$\not\mid$」を「$\mid$」の否定とする。
また記号「$\perp$」を使って「$a\perp b$」を、「$a$ と $b$ は互いに素」の意味に使う。また 「$\not\perp$」を「$\perp$」の否定とする。
命題1 $a$ を自然数、$p$ を素数として
\[ p\mid a^2 \qquad \Rightarrow \qquad p\mid a \]
後の証明のために少し一般化して
命題Ⅶ.30 \[ p\mid ab \qquad \Rightarrow \qquad p\mid a \quad\mbox{or}\quad p\mid b \]
命題1は命題Ⅶ.30の特殊な場合である。「Ⅶ.30」としたのは、この命題が『原論Ⅶ』命題30に対応するからである。

命題Ⅶ.30の証明は後回しにして、命題Ⅶ.30が正しいことを当面認め、これがどのように証明に役立つか見てみることとする。

2つの自然数 $a$,$b$ で命題を述べたが、命題Ⅶ.30は任意の個数の $a$, $b$, $c$, ... に容易に拡張できる。

$\sqrt{n}$ 問題の証明には背理法を使う。($a$、$b$) は$\ref{eq:thea}$の解とし、一番小さな組を選ぶ。(その場合 ($a$、$b$) は互いに素である)
$n = P m^2$ ($P$ は相異なる素数の積である。$P \not= 1$)とする。$n$ の素因数への分解は一般的に言えば平方数 $m^2$ を含むが、その場合には $a=ma'$ と置き換えればよいので、$m=1$と考えても一般性を失わない。それゆえ
\[ a^2 = P b^2 \]
を考察する。$p$ を $P$ に含まれる素数の1つとし、$P=pQ$ とする。
仮定より $p\mid a^2$ 。 命題Ⅶ.30より $p\mid a$ 。 従って $a=pc$ となる $c$ が存在する。
\[ pc^2 = Q b^2 \]
従って $p\mid Q b^2$ 。 $p$ と異なる素数の積である $Q$は$p$で割り切れないので命題Ⅶ.30より $p\mid b^2$ 。さらに命題Ⅶ.30を使えば $p\mid b$ とになり、背理法の仮定を破る。

命題Ⅶ.30の証明にはユークリッドの互除法を使うのが分かりやすいと思われる。ピタゴラス学派が辿った道でもあったろう。「ユークリッドの互除法」のセクションで証明を与えておく。

なお、『原論Ⅶ』命題30はこの命題Ⅶ.30である。従って$\sqrt{n}$ 問題は原論のどこかで解決されているのではないかと思われる。

補足: テオドロス問題は『原論Ⅷ』で解決されている。すなわち
命題Ⅷ.22: $a:b=b:c$、かつ、$a$が平方数ならば、$c$も平方数である[22]
次の置き換えを行う: $(a,b,c) \to (b^2,a,n)$
すると式($\ref{eq:thea}$)を得る。

命題Ⅷ.22ほど直接的ではないが、Ⅷ.14でも代用できる。
命題Ⅷ.14: もし正方形数が正方形数を測るならば、辺も辺を測ることになる。そして辺が辺を測るならば、正方形も正方形を測ることになる。
「測る」とは「割り切る」の意味である。ここで述べていることは: $a^2\mid b^2 \quad \Leftrightarrow \quad a\mid b$
なお『原論Ⅷ』の注釈(文献[21]p.197)によれば、命題14-17は孤立していて、意義は明らかではないとのことである。
筆者は、「テオドロス問題」と述べた命題はテオドロスが解決したはずだと信じている。(付録「『原論』第Ⅶ巻の成立」)
そのように考えると『原論Ⅷ』の一部はテオドロスによることになる。

注意: 「テオドロス問題」は筆者の造語である


注1: 他方では分数が数として認知されずに、比率として扱われているのは如何にも不釣り合いである。不便極まりないのである。算術の中では分数は使われていたはずである。しかし『原論』では徹底排除されている。(分数を扱っている箇所が『原論Ⅶ』の最後にあるのだが、後世の付け足しだと言われている)
ギリシャ数学において分数がいつから数として認知されたか興味のあるところだが筆者は今のところ知らない。
なお、テアイテトスは、この数概念の拡張によって幾何学が丸く収まるか否かを研究したはずである。『原論Ⅹ』は、このテーマを扱っており、彼の研究を纏めたものだと言われている。

3.5. その他のアプローチ

Wikipedia “Theodorus of Cyrene” から

$n$ を奇数として
\[ a^2 = nb^2 \]
の自然数解($a$,$b$)について考える。$a$,$b$ は既約とする。
$a$,$b$が偶数と奇数の4通りの組について試してみると、共に奇数の場合以外は、この式を満たさないことが分かる。
従って$a$、$b$が共に奇数と考えても構わない。
奇数の自乗を調べる: $1$, $9$, $25$, $49$, ...
これらは$8$で割って$1$余る。この証明は次のようにすればよい。
\[ (2k+1)^2 = 4k(k+1)+1 \]
$k(k+1)$は偶数なので、$4k(k+1)$は8で割り切れる。

参考のために幾何学的証明を載せておく。

ABCDは1辺を奇数とする正方形である。BE,DGは共に$1$とする。すると、AEFGは1辺を偶数とする正方形である。その中心点が存在しMとする。すると斜線の面積はABCDから1引いた面積の1/4である。(BHFEを移動してみれば分かりやすい)
四辺形LMNFの面積は連続する2つの整数の積であるから偶数である。従って正方形ABCDの面積は、$8$で割ると$1$余る。

さて、$cd$ を自然数の積とし、$d$ も $cd$ も共に$8$で割って$1$余るとせよ。すると$c$もまた$8$で割って$1$余る。

この命題の幾何学的証明を載せておく。

長方形ABCDにおいて、ABの長さを$c$、ADの長さを$d$とする。$d$は$8$で割って$1$余るので、AEを1、DEは$8$で割り切れるとしてよい。ABCDは8で割って$1$余るのでABFEもまたで割って$1$余ると考えてよい。このことは$c$が8で割って$1$余ることを意味する。

この命題で、$c=n$、$d=b^2$ と考え、この結果を $nb^2$ に当てはめると $n$ が $3$, $5$, $7$, $11$, $13$, $15$の場合には自然数解を持たないことが分かる。( $n=17$ は結論を出せない)
また、自然数解を持たない$n$の例が無限に存在することも容易に分かる。

以上のことは剰余計算を知っている我々には簡単に見通せるのであるが、幾何学的証明だけからは大変であったろう。従ってテオドロスは、このアプローチを取っていないと推測する。

3.6. $\sqrt{3}$問題の解決は何故こんなに遅れたのか?

テオドロスが$\sqrt{3}$も無理数であることを発見したのはテアイテトスたちを相手に講義する以前である。テオドロスがまだ気力がある年齢、50歳代とすると、410BCぐらいだろうか。
他方$\sqrt{2}$については、いつ頃、誰によってなのかは分かっていない。ヒッパソスであるとする説が主流であるが、懐疑的な見方もされている。ヒッパソスについては殆ど何も分かっていない1

自然数2について問題が解決されれば、自然数3に進むのが自然な流れである。ところが、文献[12]では、ハーディー・ライト「数の理論入門」の中の、「定理は 50 年以上も拡張されなかったようである」を紹介している。そうならば、何故こんなに遅れたのか?

考えられる理由は
(a) 「無理数」はピタゴラス学派ではタブーであった。(テオドロスの時代になるとタブーが解けていたと考えられる)
(b) 思い込みが解決を困難にした。(ピタゴラスの定理から意識が開放される必要があった)
ピタゴラス学派の厳しい戒律を考えると(a)はありそうである。また、現在に至るも幾何学的証明として直角三角形から抜け出していない現状を考えると(b)もまたありそうである。

あるいは(a)と(b)の理由が同時にあったかもしれない。多様な人々との間の議論が、思い込みから解放されるヒントになることが多いからである。


注1: Ball[8]には circ.470 B.C. とある。無理数の発見者よりも、いつ頃発見されたかの方が重要であろう。この発見には、解の存在証明(解の構成法を示せばよい)とは異なる論理的センス(背理法)が要求され、解の存在そのものに数学者が目を向け始めたことを意味している。
文献[20,23]には、論証数学(論証を明示する数学)を発明したのは440BC頃に活躍したキオスのヒポクラテス(医者のヒポクラテスではない)ではないかと書かれているが、それならば無理数の発見は、さらに遅れることになる。(筆者が言うように「論証数学」の習慣なしには無理数は発見できないだろう)

4. ユークリッドの互除法

4.1. 互除法

命題2 ($a$,$b$) を自然数の組で ($a\ge b$) とする。$c$ を $a$ を $b$ で割った剰余とする。
すると、($a$,$b$) の公約数は、($b$,$c$) の公約数に等しい。
証明: ($a$,$b$) の公約数を $d$ とする。すると $a=a'd$、$b=b'd$ で表される。$a'$ と $b'$ は自然数である。
$a=nb+c$ と置く。$n$ は割り算の商である。すると $c=a-nb=(a'-nb')d$ となるので、$c$ もまた $d$ で割り切れる。
従って、$d$ は ($b$,$c$) の公約数である。
注意: この逆、すなわち、($b$,$c$) の公約数は ($a$,$b$) の公約数でもあることも容易に示される。

この命題によって、我々は大きな自然数の組、例えば ($11349$, $6201$) の公約数を見つけたいときに、この代わりに $11349$ を $6201$ で割った剰余を算出し、もっと易しい問題 ($6201$, $5148$) について考えればよいことになる。このプロセスを繰り返せば、最後には最も簡単な数字の組、このケースでは ($117$, $0$) を得て、公約数 $117$ を持つことが分かる。これがユークリッドの互除法である。

さて、互除を繰り返して、最後に ($r$, $0$) を得たとする。($a$,$b$) の公約数 $d$ は $r$ を割り切る。このことから $r$ は最大公約数であることが分かる。

以上をまとめると

11349
 6201
 5148
 1053
  936
  117
    0
のように順に割り算の余りを出して最大公約数を得ることになる。

さて $a$,$b$ の最大公倍数を $\gcd(a,b)$ で表すと、任意の自然数 $m$ について
\[ \gcd(ma,mb) = m \gcd(a,b) \]
これは殆ど自明なのであるが一応証明を付ける。
$\gcd(ma,mb)$ が因子 $m$ を含むことは明らかなので、$md = \gcd(ma,mb)$ と置く。すると $d$ は $md\mid ma$ かつ $md\mid mb$ なる $d$ の中の最大の自然数である。従って、$d$ は $d\mid a$ かつ $d\mid b$ なる自然数の中で最大のものである。すなわち $d=\gcd(a,b)$

命題3 \[ a\perp b \qquad \Rightarrow \qquad \gcd(ac,b)=\gcd(c,b) \]
証明: $\gcd(ac,b)\mid ac$ かつ $\gcd(ac,b)\mid bc$ ∴ $\gcd(ac,b)$ は $ac$ と $bc$ の公約数である。
∴ $\gcd(ac,b)\mid \gcd(ac.bc)$。ところが $\gcd(ac.bc)=c\gcd(a,b)=c$ ∴ $\gcd(ac,b)\mid c$
また $\gcd(ac,b)\mid b$ ∴ $\gcd(ac,b)$ は $b$ と $c$ の公約数である。 ∴ $\gcd(ac,b)\mid \gcd(b,c)$
他方 $\gcd(b,c)\mid b$ かつ $\gcd(b,c)\mid ac$ ∴ $\gcd(b,c)\mid \gcd(b,ac)$
つまり、$\gcd(b,c)$ と $\gcd(b,ac)$ は互いに整除するので $\gcd(b,c)=\gcd(b,ac)$
(この証明法は文献[19]に負う)

さらに命題3から次の命題が直ちに得られる。
命題4 \[ a\perp b \quad \mbox{and} \quad b\mid ac \qquad \Rightarrow \qquad b\mid c \]

さて命題4から命題Ⅶ.30が得られる。
命題Ⅶ.30の証明: 命題Ⅶ.30は
\[ p\mid ab \qquad \Rightarrow \qquad p\mid a \quad\mbox{or}\quad p\mid b \]
であった。$p\mid a$ の場合は成立するのだから、$p\not\mid a$ の場合を問題にすればよい。この場合には $a\perp p$ である。命題4で $b$→$p$、$c$→$b$と置換して $p\mid b$ が得られる。

注釈1: ファン・デル・ヴェルデン[26]によると古代メソポタミアや古代エジプトで互除法が知られていた痕跡はない。
注釈2: 『原論Ⅶ』には次の内容の命題22が存在する。
\[ a\perp b \quad \mbox{and} \quad a:b=c:d \quad \Rightarrow \qquad a\mid c \quad \mbox{and} \quad b\mid d \]
これは命題4と内容的には同じである。

4.2. 最大公約数と最小公倍数の基本定理

ついでに、最大公約数と最小公倍数に関する基本的な定理を整理しておく。

定理1 自然数の組 ($a$,$b$) の最小公倍数を $m$、任意の公倍数を $m'$ とする。すると $m\mid m'$ である。
証明: $m'>m$ 故、$m'=km+r$ と置く。$k$ は除算の商、$r$ は剰余である。($r<m$ である)
$a\mid m'$、$b\mid m'$、$a\mid m$、$b\mid m$ に注意しておく。$r=m'-km$ なので $a\mid r$ かつ $b\mid r$ 。∴ $r$ は($a$,$b$)の公倍数。
∴ もしも $r \not = 0$ ならば $m$ より小さい公倍数 $r$ が存在することになる。従って $r=0$ である。
(この証明法は文献[18]に負う)

定理2 自然数の組 ($a$,$b$) の最大公約数を $d$、任意の公約数を $d'$ とする。すると $d'\mid d$ である。
証明: 命題2の証明を見よ。

定理3 自然数の組 ($a$,$b$) の最大公約数を $d$、最小公倍数を $m$ とすると
\[ ab = dm \]
証明: 以下の証明は文献[19]を基にしている。この証明法は、定理1の証明を兼ねている。
($a$,$b$) の任意の公倍数を $m'$ とし、$m'=aa'$ と置く。また $d=\gcd(a,b)$ とし、$a=a_1 d$、$b=b_1 d$ と置く。すると、$a_1\perp b_1$、また $m'=a'a_1d$ である。
\[ b\mid m' \quad \Rightarrow \quad b_1d\mid a'a_1d \quad \Rightarrow \quad b_1\mid a'a_1 \quad \Rightarrow \quad b_1\mid a' \]
そして $b\mid m'$ が成立するので、$a'=b_1n$ で表されることが分かる。ここに $n$ は自然数である。ゆえに $m'=a_1 b_1 d n$ となる。$m'$ が一番小さくなるのは $n=1$ の時で $m=a_1 b_1 d$ が最小公倍数であり、$m\mid m'$ となる。さらに、$md = ab$ が言える。

4.3. 素因数分解の一意性

素因数分解は中学校で習っていると思えるが、実は難しい問題が含まれていることを教師が認識しているかどうか...

例えば $77$ について考えてみよう。$77$ は $7$ で割り切れ、商が $11$ になることは容易にわかる。従って、この素因数分解は $7\times 11$ である。ここまでは良いのであるが、だから「これを割り切る素数は $7$ あるいは $11$ のみだ」と言えば論理の飛躍がある。「どうして?」と言える生徒がいれば非常に鋭い論理感覚を持っていると言うべきである。

既に見たように、この「どうして?」の疑問に答えるのは非常に難しい。高校程度の教員でも、その能力はないだろう。ベストな答えは「鋭いね君は... 大学に入って整数論の本を読んでごらん。君の疑問が解けると思うよ」だと思う。

素因数の問題に関して、我々はあまりにも経験に支配されている。そのために疑問を持たなくなっている。

素因数への分解が一意であることも暗黙に受け入れている。むしろ、一意にならないことを想像するのも難しいだろう。原因は分解手順が(暗黙に)与えられているからである。小さい素数から割り算をして、商をさらに割っていき、... として素因数分解が得られると考えている限り、一意性に対して疑問がでてくる訳けがない。分解手順が与えられれば一意になるのである。
多様な分解手順が存在する可能性を認識してなくてはならない。
「素因数への分解は、分解手順に依存しない」と言えば、自明な命題だと思わなくなるだろう。

素因数分解の一意性の証明は初等整数論の殆どの本に書かれていると思う。ここでは煩雑さを避けて、次のように証明してみた。(多分に直感的かも知れない)
証明: 自然数$N$を、ある分解手順によって、素数の積$P_1$に分解できたとする。別の分解手順では素数の積$P_2$に分解されたとする。$N=P_1$、$N=P_2$ である。自然数の積は、順序を入れ替えて構わないので、両方共、小さな素数から並べられていると考えてもよい。
$P_1$と$P_2$に共通に含まれている素数を順に取り出して、それらの積を$P$とし、残りを $Q_1$ 及び $Q_2$ とする。すると $N=P_1=PQ_1$ 及び $N=P_2=PQ_2$ を得。また仮定より $Q_1\perp Q_2$ である。
$\gcd(N,N)=N$ 他方では $\gcd(P_1,P_2)=\gcd(PQ_1,PQ_2)=P\gcd(Q_1,Q_2)=P$ となるので $N=P$となる。これから $Q_1=1$、$Q_2=1$ を得る。

注釈: 古代ギリシャの時代には、自然数を(素数の積による)標準型に分解する発想はなかったらしい。文献[28]によると分解定理(素因数分解の一意性)の完全な証明はガウス以前には見当たらないと言う。

4.4. 除算の概念

ユークリッドの原論(英語版)では2つの大きさ(magnitude)$a$と$b$の除算の剰余$r$を次のように定義している。
$a>b$ として、$a$から$b$を可能な限り除いて、余りが$r$であると...
すなわち、
\[ a = bn + r \]
ここに$n$は $a>bn$ となる最大の非負整数である。

つまり、除算は、可能な限り除去すると言う特殊な減算である。

日本語の「除算」の意味にも同様なニュアンスが込められているのかも知れない。(割り算と除算は概念的に違うのだろうね...)

ユークリッドの時代になると、長さとか面積とかの概念を一般化した magnitude が使われている。数と量は概念的に分けられ、前者は number、後者は magintude と表現される。

この除数の概念を互除法に適用した場合、例えば図12のようになる。

図12: 互除法

この例では、$a=16, b=6$ から出発している。この場合、 $c=4, d=2$ となる。最後の除数が $d$ であり、これが最大公約数である。図に目盛を入れていないのは、スケールを変えても同じ相似図形ができるからである。

最大公約数はしばしば GCM(Greatest Common Measure) とも呼ばれる。「$a$が$b$の measure になる」とは、$b$が$a$の自然数倍として表現できることを言い表している。GCM とは、2つの量を自然数値として計る共通の measure の最大のものである。

5. ユークリッドの『原論』

5.1. 『原論』における比の概念

『原論Ⅴ』では、相似図形を扱うために比を定義している。
量$a$,$b$,$c$,$d$において、$a:b=c:d$ とは:
どのような自然数$n$,$m$に対して、次の3つのいずれかが成立すること。
(よく錬られた定義ですね... この定義に行き着くまでに、かなりの期間を要したのではないかと思う。我々凡人は思いつかない。)

原文(の翻訳)を分かりやすく言い直したのだが、それでも何を言いたいのか分かりにくい。そこで現代語に書き直す。

我々であれば $a=\alpha b \quad \mbox{and} \quad c=\alpha d$ となる $\alpha$ が存在することとやるのだが、それは実数概念がしっかり確立しているからである。彼らは比の値 $\alpha$ を表に出さないことによって、比の値を不問に付しているのである。それでも比の大小関係 $a:b<c:d$ も定義しているところが面白い。比が量であることを認めているのである。

『原論Ⅴ』ではこの定義に基づいて、我々が比率について(常識として)知っている多数の命題を導く。そして『原論Ⅵ』に続く。

比例と幾何学を結び付ける次の定理を証明している。

定理: 線分BCと線分DEが平行ならば、$\overline{\mbox{AB} }:\overline{\mbox{AD} }=\overline{\mbox{AC} }:\overline{\mbox{AE} }$
逆もまた成り立つ。

証明: 線分BCと線分DEは平行なので、SDEB=SDEC に注意しておく。
SABE=SADE+SDEB
SACD=SADE+SDEC
従って SABE=SACD
AB:AD=SABE:SADE
AC:AE=SACD:SADE
故に AB:AD=AC:AE
逆も容易に示される。

定理の系: 内項の積は外項の積に等しい
\[ a:b=c:d \qquad \Leftrightarrow \qquad ad=bc \]
証明: 定理の図において、角BACを直角に取ればよい

5.2. 単位とは...

『原論Ⅶ』の冒頭に意味深長な言葉がある:

An unit is that by virtue of which each of the things that exist is called one.
(単位とは存在するものの各々がそれによって一と言われるものである1)

次のように言い換えたほうが分かりやすいかも知れない。「単位とは、それに基づいて1を定義するものだ」

哲学者たちは昔から “unit” とか “monad” とかが大好きで、これについて話しだしたら止まらない。そうした議論をさらりとかわしたのではないかと思える。「君が1と考えているものが unit だよ」と。

ところで、この “unit” についての話から、筆者が面積について習った時に抱いた疑問を思い出した。それは長方形の面積に関するものである。長方形の面積は「底辺✕高さ」であると教えられた時に、納得できなかったのである。面積は1辺が1の正方形を単位にして定義される。そして、底辺と高さが自然数になる図形を例に出して、「底辺✕高さ」を確認し、「だから...」という言い方に納得できなかったのである。この疑問は教育の中では解決されなかった。自分で解決するよりなかった。有理数について学んだときに、その範囲では納得した。実数の範囲では、実数が有理数の極限として定義できることを学んで、ようやく長い間の疑問が解決された。

今回、『原論』に目を通して、彼らはこの問題をどのように処理したかを見てみた。この問題は『原論Ⅰ』の命題44で扱われている。

ユークリッドは「面積」を露わに出さないので読みづらい。「面積」を使うと、「何だそれは? 定義してから使え!」になるからだろうと思われる。

『原論』では2つの図形の面積が等しいことの証明は、(究極的には)合同な三角形の面積が等しいことに還元される。
命題44は、「角$\theta$と長さ$l$を与えて、与えられた三角形の面積に等しい面積を持つ平行四辺形ABCDを、角ABC=$\theta$、辺BC=$l$ となるように構成しなさい」と言う問題の答えである。
$\theta$を直角、$l=1$とすれば、三角形に分割可能なあらゆる図形の面積が、1辺が1の長方形の上に積み上げ可能だと言うことになる。
図13に命題44の証明図を載せる。左に三角形が与えられ、底辺の長さを$a$としている。この面積と等しい面積の図が水色で塗られている。右上の平行四辺形が求めるものである。

図13: 命題44の証明図

ところで、これで長方形の面積公式の問題が解決されたわけではない。与えられた長方形を底辺の大きさが $1$ の長方形の面積の作図問題に還元されただけであって、計算式に乗せるためには、高さを知らなくてはならない。あるいは元の長方形の底辺と高さを知らなくてはならないのであるが、ピタゴラス派(ユークリッドも含めて)の数学者たちは、ここで行き詰まったのである。(彼らの言葉で言えば、底辺と高さを同じ単位で測れなくてはならない)

この問題は結局『原論Ⅹ』に持ち込まれるのであるが、それでも彼らは解決しなかったはずである。


注1: 斎藤[21]訳

5.3. 「数」と「量」

『原論』を読むと、「数(number)」と「量(magnitude)」が頻出する。この概念は『原論』を貫くキーワードなのであろう。一見すると、「数」は石の個数のように数えられるもの、「量」は長さとか面積のような幾何学的なもの、そこから「数」は自然数、「量」は実数、と解釈しがちなのであるが...

『原論』を離れて、「数」と「量」について考えてみよう。
リンゴのひと山があったときに、どれだけのリンゴがあるのかは数えなくては分からない。one、two、three... とか。
長さを測るためには物差しが必要である。結果は 34cm などのような数字である。
すると、数とは何かを測って得られるものであると考えられる。
リンゴを数えるときには自然な単位が存在するが、長さの場合には自然な単位は存在しない。必ず単位長を定め、それに対する比率で数が表現される。
数を見出して、初めて計算が可能になり、また(単位についての合意があれば)、記録とか、伝達が可能になる。この面から見れば、数とは言葉に近いものである。数とは量の言語表現と言ってよいものではないかと思える。

以上の考察から、「数」と「量」と「単位」と「測る」は一組のキーワードであることが分かる。「数」や「量」の理論を組み立てる前に、「単位」とは何であるか、「測る」とは何であるかを固めていつたピタゴラス学派は素晴らしい感性の持ち主たちだと言える。

さて、問題なのはピタゴラス学派が(そしてユークリッドも)自然数以外の数を頑なに拒んだことにある。彼らの number は自然数である。彼らは自然数以外を知らなかったのであろうか? 分数がないと商売に困るでしょ! と首を傾げたくなるのである。

ファン・デル・ヴェルデンは「古代文明の数学」の中で1つの章を割いて日常の数学を例題とした当時の算術問題を紹介している。そこではちゃんと分数も扱われている。さらに、エラトステネスやアルキメデスは分数を(証明の中に)使っていたと述べている。つまり分数は算術としては存在していたのである。

自然数以外を拒否するのはピタゴラスの自然数崇拝の影響だろうか? それとも、分数や有理数についての理論構成に困難を感じていたからだろうか? いや、それとも、自然数の中には面白い問題がいっぱいあって、それに溺れてしまっていたのだろうか? などなど、いろいろなことを考えてしまう。有理数の概念を使えば自明な事柄が自然数によって説明されるので、読む方は大変である。

『原論』の中に分数表現は存在しないのか? 調べてみると、第12巻命題10に次の表現があった。

Any cone is a third party of the cylinder which has the same base with it and equal height.

円錐の体積は、それと同じ高さ同じ底面を持つ円柱の体積の$1/3$だと述べている箇所である。さすがにここには分数が使われている。比率としての$1/3$は意味がはっきりしており、そのような場面では分数は使われているのである。文脈で言えば「〇〇の$1/3$」である。

$1:3$ は $1/3$ のことだと、どこかで見たような気がする。しかし、そのように解釈して平気でおられるのは(教育の結果、健全な感覚を失った)現代人だからである。もしも$1/3$を認める者がいれば、当時のギリシャでは誰かが大小様々な小石が入っている袋を差し出し、「小石の数を数えてみろ」と言われかねない。比は比であって、何かの量ではあるが、測ることのできないものだと考えたのではないか?

或る単位の下で、或る量を測った場合にピッタリとした数(自然数)にはならないかも知れないが、それは単位の選び方が悪いからだと逃げることができる。しかし、2つの量を測った場合には、どのように単位を選ぼうとも、両方共にピッタリとした数(自然数)にはならないことがある。その場合には「量」はあるが、「数」では表せないこととなる。ピタゴラス的な数概念の非力さが露呈するのである。

『原論Ⅴ』の比例論は相似図形を扱うためのものである。その場合、相似比が有理数になる保証はない。ピタゴラス的な数概念では行き詰まるのである。しかし著者だとされるエウドクソスは、ここで生じた難問を見事に切り抜けている。ここまで到達していて、どうして自然数から抜け出せないの?

ファン・デル・ヴェルデンによると、バビロニアでは単位の問題(幾何学的解釈)に無頓着で、単純な演算プロセスとしてあっさり処理されていたとか...

注釈: 現代の数学では「数」と「演算」が極限まで抽象化されている。それによって算法が非常に楽になっている。しかし、それを実世界に適用するときには、使用されている「数」や「演算」の意味に注意を払って進めていく必要がある。それを怠ると、リンゴ3個にミカン5個を掛けて... とか、こんな初等的な誤りを犯すことはないとしても、経営シミュレーションに(借金が許されないにも関わらず)負の金額を暗黙に使うとかをやりかねない。

6. 付録

6.1. ピタゴラス数

3辺が整数からなる直角三角形の辺の組はピタゴラス数と呼ばれている。($3$,$4$,$5$)の組みや($5$,$12$,$13$)の組はピタゴラス数の例である。

ピタゴラス数は
\[ \begin{equation} (m^2+n^2)^2 = (m^2-n^2)^2 + (2mn)^2 \label{eq:pythanum} \end{equation} \] の恒等式を使えば容易に見つけることができる。(逆に、全てのピタゴラス数は、この式から得られることが示される → 追記2)

式($\ref{eq:pythanum}$)は次のように幾何学的に見つけることができる。
$a>b$ として、1辺が $a+b$ の正方形を描く。これを下図のように分割すると
\[ \begin{equation} (a+b)^2 = (a-b)^2 + 4ab \label{eq:pythanum2} \end{equation} \] を得る1

図14: 式($\ref{eq:pythanum2}$)を示す図

そして、$a$ を $m^2$、$b$ を $n^2$ に置き換えると、式($\ref{eq:pythanum}$)が得られる。

しかし、この置き換えについては微妙なものがある。
幾何学に依存する論法では、数字が長さや面積の概念に依存する。「$a$が長さであれば、$m$は何ぞ?」の質問に、ピタゴラス学派は耐えられたかが問題である。この論法が認められるには、数概念が抽象化されていなくてはならない。

あるいは式($\ref{eq:pythanum}$)を露わに持ち出さずに、式($\ref{eq:pythanum2}$)のままで運用し、$a$や$b$に平方数($1$,$4$,$9$,...など)を長さとして当てはめたのかも知れない2。(論理的な整合性は取れるから)

式($\ref{eq:pythanum}$)が、誰によっていつ頃発見されたか、筆者は知らない3
ピタゴラス教団ではピタゴラス数が見つかるたびに盛大なお祝いをしたと言われている4。お祝いをしている間は、式($\ref{eq:pythanum}$)は見つかっていなかったはずである。

式($\ref{eq:pythanum2}$)を知っていて、なおかつ、式($\ref{eq:pythanum}$)を知らなかったとなれば、ピタゴラス学派は、式($\ref{eq:pythanum2}$)がピタゴラス数と関係していることに気付いていなかったと推測される。

追記1:

Ball[8](p.26)は図17左を紹介し、

図15: ピタゴラス数を見つけるための図

ピタゴラス学派は $m=n+1$ のケースを知っていた、アルキタスとプラトンは $n=1$ としていた、Diophantus は式($\ref{eq:pythanum}$)を知っていたと述べている。
左の図は $m=n+1$ のケース、右側の図は $n=1$ のケースで筆者の推測である。
いずれも斜線の部分の面積が平方数となればピタゴラス数が出て来る。$n=\overline{\mbox{AD} }-1$ と置くと、左の図では $2n+1$ が平方数、右の図では $4n$ が平方数となればよい。

追記2: 全てのピタゴラス数が式($\ref{eq:pythanum}$)によって表されることが以下のように示される。

図16: ピタゴラス数の代数学に基づく証明

$a>0$として、直線 $y=-a(x-1)$ を描く。これと、円 $x^2+y^2=1$ の交点を $P$ とする。すると、$P$ は $a$ によって
\[ \begin{equation} x = (a^2 - 1)/(a^2 +1) \qquad y = 2a / (a^2 + 1) \end{equation} \] で表される。これから $a$ が有理数であれば、($x$,$y$) もまた有理数であることが分かる。逆に、$x$ が有理数であれば、$a^2$ も有理数となり、従ってさらに $y$ も有理数であれば $a$ が有理数であることが分かる。$a=m/n$ と置くと、式($\ref{eq:pythanum}$)を得る。

追記3:2017/12/14

『原論X』命題28補助定理1

$m,n$ において $m>n$ とし、また共に偶数あるいは共に奇数とする。すると $m+n$ も $m-n$ も偶数である。その下で恒等的に
\begin{equation}
(\frac{m-n}{2})^2 + mn = (\frac{m+n}{2})^2
\label{eq:pro28L1}
\end{equation}
となる。

$m,n$ が相似平面数であれば $mn$ は正方形数なので、(注: $m,n$ が相似平面数であるとは $mn$ が正方形数であると理解してよい)
\begin{eqnarray*}
a&=&\frac{m-n}{2}\\
b^2&=&mn\\
c&=&\frac{m+n}{2}\\
\end{eqnarray*}
と置くと
$$ a^2 + b^2 = c^2 $$
となる。

この主張は次の図で理解できる。

図17: ピタゴラス数を見つけるための図

この図より、$a^2 + (c-a)(c+a) = c^2$ であることがわかる。$m=c+a,\;n=c-a$ と置くと、$2c=m+n,\;2a=m-n$ を得る。これより、$m,n$ は共に偶数あるいは共に奇数となり、補助定理1が得られる。

図14には致命的な欠陥がある。それは大きな正方形の辺と小さな正方形の差が偶数でないと適用できないことである。それにも関わらず、何故(結果的に)式($\ref{eq:pythanum}$)でもOKであったのかの疑問が残るが、それについては別の機会に解説する。


注1: 『原論』を読んでいて気がついたが、式($\ref{eq:pythanum2}$)はユークリッドの『原論Ⅱ』定理8でもある。訳本(CASEY[13],p.58)には図14と等価な図が定理8に添えられている。
注2: 『原論X』を読んでいて気がついたが、命題28の補助定理1がピタゴラス数を扱っている。採用されたロジックは式($\ref{eq:pythanum2}$)のままで、$ab$ が平方数となる条件を示している。なお、補助定理は『原論』に(写本を繰り返す中で)後から追加されたものと考えられている。いつ頃、誰によるかは不明である。
注3: マオール[4]は古代バビロニアで既に知られていたはずだとしている。
注4: この話は疑わしい。

6.2. ヒポクラテス

Hippocrates of Chios
医者のヒポクラテスではない

ヒポクラテスは挑戦的なテーマに大胆に取り組む。与えられた円の面積に等しい正方形を作図する問題である。
ヒポクラテスは成功はしなかったが、特殊な三日月形領域に等しい正方形を作ることには成功した。以下、Ball[8]に載っていた証明を紹介する(図18)。

命題: 図18で、点Oは円の中心、線分ABは直径、点Cは円周上にあり、AC=BCである。またBECは半円である。すると斜線の三日月領域と、斜線の直角二等辺三角形の面積は等しい。(注: 直角二等辺三角形の面積に等しい正方形は容易に作図できる)

図18: 三日月領域に等しい面積を持つ直角二等辺三角形

ユークリッドによる三平方の定理の第二証明より、半円ABDの面積は、半円BECの面積と半円AGCの面積の和である。このことから、扇形OBFCの面積は半円ABDの面積の半分である。従って、扇形OBFCの面積は半円BECの面積に等しい。両者から共通の図形BFCを除去すると命題が得られる。

この証明は非常に大胆である。面積に対する直感が大胆に使われているのである。あくまで三角形の面積からアプローチする『原論』の厳格さと好対照をなしている。

ヒポクラテスの定理の証明には、(他の証明法があったとしても)ユークリッドによる三平方の定理の第二証明が欠かせないであろう。ヒポクラテスの時代には既に第二証明が知られていた可能性が高いことを示している。

Ball[8]によると


注1: Wikipedia “Hippocrates of Chios” には “para-Pythagorean” とされている。

補足:

Net で見かけた記事(村田[29]):

ヒポクラテスの定理の証明法について、

円の面積が直径の平方に比例することが使われていることは,注目に値する。というのは,このことの証明が,ユークリッドの『原論』の中では,近世になって「取り尽しの法 (method of exhaustion)」と名付けられた間接的方法によって行なわれており,かつ通常その発案者はプラトン派のエウドクソスだということになっているからである。

大胆なヒポクラテスは、証明なしに使ってしまったのであろう。

「円の面積が直径の平方に比例する」は『原論ⅩⅡ』の命題2にある(HEATH[16])。

Circles are to one another as the squares on the diameters.

鋭い論理感覚を持っていない限り、このことは自明と思い、証明が必要だと思わないだろう。仮に思ったとしてもその証明は難しい。エウドクソスは素晴らしい!

ところで、わざわざ英文を引用したのは、「面積」なる言葉が使われているか否かも知りたかったからである。筆者が知る限り、「面積」は『原論』には現れない。まるで、その必要がないかのように... 「面積」は図形と完全に一体化し、図形そのものであるかのように...

村田氏の、この記事は非常に面白い。(一読の価値あり)

6.3. ピタゴラス音階

ヒース[17]:

和音が数の比に依存することは、ピタゴラス自身が確かに発見したとみてよかろう。

鍛冶屋伝説に対する疑問:
古代の代表的な弦楽器であるハープは(エジプトにもギリシャにも)存在していたはずである。
ハープ職人とハープ奏者が音階と弦の長さの関係に無知だったとは考え難い。(定量的とは言わなくても定性的な関係ぐらいは知っていたはずである)
ハープは宗教儀式に使用されていたはずである。ピタゴラスはどこかで(エジプトだろうね)神官たちからハープにおける音階理論を教えてもらった可能性が高い。それに基づいて帰国後、緻密な研究をしたのではないだろうか?

ここで「神官たちから」と言うのは、彼らが幾何学や天文学など、高度な知識の唯一の担い手だったはずだからである。

ディオゲネス:

また彼は、銀製の盃を三個作らせて、エジプトへ持参し、神官たち一人ひとりへの贈り物にしたとのことである。
...
さらに彼は(バビロニアの)カルダイオス人(の神官)たちや、(ペルシャの)マゴス僧たちのところにも滞在した。
「彼」とはピタゴラスのことである。彼は神官たちに意識的に近づいたのである。異国の高度な知識を学びたければ当然の行動である。

Ball[8]によると、ピタゴラスはアナクシマンドロスに師事したとある。アナクシマンドロスはタレスの弟子で、ミレトス学派に属する。ピタゴラスの生地サモスはミレトスに近い。ピタゴラスはエジプト諸国を旅行するに当たって経験者であるタレスにアドバイスを求めたはずである。想像するに、タレス曰く「神官から学べ、贈り物を忘れるな!」

ヴェルデン[27]によると、ピタゴラスはエジプトよりもバビロニアから多くを学んだ。理由は、バビロニアの方が遥かに高度な数学と科学を発展させていたのと、彼の教義の中にバビロニアの強い影響が見出されるからである。

追記: ヴェルデン[26]にも関連する記述がある。イアンブリコスによると、ピタゴラスは旅行に出かける前にタレスに会い、アドバイスを受けた。神官たちから学ぶようにと。そしてエジプトでは天文学と幾何学、バビロンでは神学と算術と音階理論を学んだと。(2017/12/14)

6.4. 『原論』第Ⅶ巻の成立

サボー[5]には次のように書かれている。

B.L.ファン・デル・ワルデンは、ユークリッドの『原論』第Ⅶ巻の最初の36個の定理が紀元前400年以前、すなわち前5世紀に、ピタゴラス学派の或る数学的著作の中にまとめられたものであり、かつ本質的な変化は何も受けないで継承されたものであることを、確かめるのに成功した。
出典は B.L. van der Waerden, “Die Arithmetik der Pythagoreer,I”, Math. Ann., 120, 1947-1949, pp. 127-153

最初の36個の定理の定理の中には、本ページ「テオドロス問題」で取り上げた命題Ⅶ.30が含まれている。テオドロスが、この著書を読んでいたとすれば、あの『テアイテトス』は何だったのか? テオドロスは素数に関する定理をテアイテトスにまず教えて、$\sqrt{n}$ 問題を解説するのが筋道ではないか?

出典を確認しようがないので、ネットを検索すると、幸い次の文献(村田[29])が見つかった。

まず問題の第7巻であるが,この本の主題は,整数の比,倍数・約数,公倍数・公約数,互いに素な二数など,一口にいうと初等整数論の入門書のような体裁をなしている。ファン・デア・ワルデンはこれを,ピタゴラス学派の数論の基礎であり,かつその音楽論のまとめであると推定し,しかもその論理の運びが簡潔でよくまとまっているにもかかわらず,表現が古風でまわりくどい事などを考え合せ,何十年かにわたる彫琢を経た古いピタゴラス学派の教科書ではあるまいかと推定している。
また特にアルキュタスが前記の定理Bを証明するのにこれを用いている有様を示して,アルキュタスの時代にその本は既にほぼ今の形に完成していたものであり,ユークリッドの『原論』の中にもあまり大きな変化なしに取り入れられたものであろうと述べている。

言いたいことは:
「ピタゴラス学派の或る数学的著作」の何であるかは分からないが、アルキタスはそれに基づいて議論していることをWaerden が主張している。

テオドロスは著名な幾何学者であったという。ピタゴラス派の標準テキストが存在すれば1、テオドロスは読んでいたはずである。可能な解釈は次のようなものであろう:
テオドロスが$\sqrt{n}$問題を手掛けた時点(まだ気力が充実していた頃)では、標準テキストの中には命題Ⅶ.30に相当する命題が存在せず、テオドロスが$\sqrt{17}$まで証明した後に、一般的な証明を追求した(追求しないわけがない)。そして彼は素数による自然数の整除に関する幾つかの命題(『原論Ⅶ』命題23から命題30に相当する部分)を標準テキストに追加した。その成果はアルキタスにも知らされ、アルキタスはそれを基に、自分の音楽理論を組み立てた。

『テアイテトス』は、プラトンがテアイテトスの戦死を知り、テアイテトスの思い出を書いた本である。テアイテトスがテオドロスの仕事を紹介したのは、400BC頃と思われる。他方戦死したのは369BCである。つまりプラトンが思い出しているのは30年以上も前の出来事である。さらにプラトンは数学者ではない。数学者の目で見たときに重要な部分が欠落していると考えてもおかしくはない。

筆者は『テアイテトス』の問題の部分を読んだときに、違和感があった。テアイテトスはテオドロスの仕事を紹介して、プラトンに今後の方針を説明している。それは数の分類問題である。しかしそれは飛躍ではないか? 数の分類問題に進む前に $\sqrt{n}$ 問題が解決されるべきではないか? テアイテトスはまるで $\sqrt{n}$ 問題が解決済みであるかのようにプラトンに説明しているのである。

次のように考えるべきだろう: テオドロスがテアイテトスに$\sqrt{n}$問題を話したのは、それを完成させるためではなくて、テオドロスの成果を踏まえて次のステップに進んでもらうためである。その成果はテアイテトスが書いたと言われる『原論Ⅹ』であるが、そこでは新しい数のクラスが吟味されている。

アルキタスの本とは?

村田[29]:

ところでこの一巻の著者は本当は誰なのであろうか。この一見困難に見える問に対して,ファン・デア・ワルデンはあえてこれをアルキュタスであろうと言っている。
「この一巻」とは(文脈からして)『原論』第8巻のことだと思われる。

なお、『原論』の著者探しは興味あるテーマらしく、いろいろ論じられる。『原論』におけるユークリッドの役割の解明もその一つである。そして何故『原論』の各巻には著者が書かれていないのかとか...
しかし、こうした詮索は個人の名誉を重視する俗人の感覚から来ている。ピタゴラスが学徒に求めたのは、教団の中での知識の共有である。生まれた知識は個人に帰属するのではなく、教団の共同成果物である。であるから、誰によってとは書く必要はない。『原論』の中に一切の名前が出てこないのは、このように考えればよく理解できる。

追記:
ヴェルデンが『数学の黎明』の中で、『テアイテトス』の問題の部分について触れている。簡単に紹介すると、
(a) 命題Ⅶ.30に相当する命題は既に存在していたが、テオドロスは知らなった。
(b) テオドロスは$\sqrt{n}$問題の幾何学的証明を試みたが、$n=19$は複雑な計算になるのでギブアップした。
ヴェルデンは実際にギブアップしそうな計算方法を紹介している。
しかし、ヴェルデンさんに失礼ではあるが、この見解は不自然すぎるので同意しかねる。


注1: 『原論』に近いものが存在していたはずである。でないと、彼らの証明を仲間に示すのに困る

6.5. 『原論』第Ⅶ巻における比例論

『原論』第Ⅶ巻における比例論は、有理数の範囲での比例関係を扱っている。他方『原論』第Ⅴ巻における比例論では、実数の範囲での比例関係が扱われている。秀逸な第Ⅴ巻側に比べて、第Ⅶ巻の方は「うーん??」、あまりにも分かりにくく、また酷いので、メモを取っておかないと、後で読み返したときに、ここで行き詰まってしまう。

以下英文(HEADTH版[15])を参考のために添える。

定義3. 数が数の、小さな数が大きな数の、単部分であるとは、(小さな数が)大きな数を測り切ることである。
解説: 「数が数の、」は削除すべし。自然数 $a$、$b$ を $a< b$ として、$a$ が $b$ の「単部品」とは、$a\mid b$
注意: 英文は問題ない

3. A number is a part of a number, the less of the greater, when it measures the greater;

定義4. また測り切らないときは複部分である。
解説: 自然数 $a$、$b$ を $a< b$ として$a$が$b$の「複部分」とは、$a\not\mid b$
英文:

4. but parts when it does not measure it.

定義5. また大きな数が小さな数の多倍であるのは、小さな数によって測り切られるときである。
解説: 自然数 $a$、$b$ を $a< b$ として$b$が$a$の「多倍である」とは、$a\mid b$
英文:

5. The greater number is a multiple of the less when it is measured by the less.

定義21. 数が比例するとは、第1が第2の、第3が第4の等多倍であるか、同じ単部分であるか、同じ複部分であるときである。
英文: 定義番号がひとつずれている。

20. Numbers are proportional when the first is the same multiple, or the same part, or the same parts, of the second that the third is of the fourth.
解説: この定義が全然分からない1! 問題になっているのは4つの数であり、これを $a$、$b$、$c$、$d$ として、「等多倍」とは $a=nb$、かつ、$c=nd$ となる自然数$n$が存在することである。ここまでは分かる。しかしその後が分からない。「単部分」や「複部分」の比較がどこにも定義されないまま、このように言われても困るのである。定義21の意味は、「単部分」や「複部分」が使用されている命題の証明法を読まないと分からないのである。
結論として以下のとおりである。
$a,b,c,d$ が比例するとは $na=mb$ かつ $nc=md$ となる自然数が存在すること。
この場合、($n$,$m$)の組は既約としてよいので、
$n=1$ なら $a,c$ は $b,d$ の等多倍
$m=1$ なら $a,c$ は $b,d$ の単部分
その他は $a,c$ は $b,d$ の複部分
と言いたいらしい。イメージとして $a:b=c:d$ を考えればよいのだが...

命題4. あらゆる数はあらゆる数の、小さい方の数が大きい方の数の、単部分または複部分である。
解説: 「あらゆる数はあらゆる数の、」は意味不明である。残りに関しては、「ハア???」と首を傾げたくなるのである。こんなの命題なの? それでもタラタラ、タラタラと「証明」されている... この命題は「単部分」や「複部分」定義とマッチしない。
英文:

Any number is either a part or parts of any number, the less of the greater.

難しいのは「$a:b=c:d \quad\Rightarrow\quad a:c=b:d$」 に相当する命題である。命題9と命題10がそれである。この証明には
\[ na=mb \quad\mbox{and}\quad nc=md \qquad\Rightarrow\qquad Na=Mc \quad\mbox{and}\quad Nb=Md\]となる $N,M$ の存在を示せればよいのだが、つぎのようにやれば済む。
$Na=Mc$ となる $N,M$ が存在するので、$nNa=nMc$、よって、$mNb=mMd$、よって、$Nb=Md$
彼らは式を知らないので、この内容が彼らの言葉に翻訳されれば終わり。しかし、『原論』の証明はヘタ!

「数が数の」ようなモヤ〜とした表現は、命題4から命題10、および、それに関連する定義に特徴的な言い回しである。この場合、読む方は「数$a$が数$b$の」のように補わなくては、意味が分からない。定義3の「小さな数が大きな数の、」、および、命題4の「小さい方の数が大きい方の数の、」はモヤモヤ感を嫌う誰かが、後から追加したのではないかと思える。


注1: ヴェルデンの古典的な名著『数学の黎明』の第2章の「ギリシャの記数法」が問題の部分に触れている[27]。単部分(part)と複部分(parts)の名称は古代の分数計算法のなごりだそうだ。part は $1/n$ ($n>1$)を表している。parts は $m/n$ ($n>m>1$)である。従って、この言い回しが我々には分かり難くても、当時のギリシャ人にとっては何でもない日常の言い方だったのかもしれない。

6.6. プラトンの数学の師

ヒース[17]

彼は数学ではプラトンの師であり、プラトンはキュレネを訪れたといわれる。しかしわれわれはプラトンの “テアイテトス” から、彼がソクラテスの頃にアテナイにいたことを推定している。

キュレネ: リビア領内にあった古代ギリシャ都市
「ソクラテスの頃」とは彼が死刑になった頃の意味である。

『テアイテトス』は「ソクラテス」とテアイテトスとテオドロスの三人の対話篇である。
対話篇では話者は「ソクラテス」に統一されている。実際には話者はプラトンである。
この場合

この内容は、大雑把には以下のとおりである。
以上は、筆者の関心点を書いている。プラトン研究者であれば別の読み方もあろう。

プラトン: テオドロスさん、こんにちは。たくさん若い子が居るみたいですね。優秀な子は居ますか?
テオドロス: 素晴らしい子が居ますよ。名前はテアイテトスです。

この後、テアイテトスとプラトンの話が一段落すると、プラトンは話題をプロタゴラス批判に切り替える。
多分プラトンはテオドロスと議論することによって、プラトンのプロタゴラス批判の正しさを確認し、あるいは整理したかったのだろう。
ところがテオドロスは年をとったことを理由に、適当にいなしている。(哲学の議論に飽き飽きしていることもあろう)

この対話が400BCと仮定するとテアイテトスは17歳。ソクラテスは399BCに死んでいる。テオドロスの生年を465BCとすると、テオドロスはまだ65歳なのでヨボヨボと言うほどではない。(実はテオドロスの生年もテアイテトスの生年もはっきりしない。『テアイテトス』からの推測である)

テオドロスの没年ははっきりしない。文献[30]によると398BCとなっているが。他の文献と矛盾する。

『テアイテトス』の対話からはテオドロスとプラトンが師弟関係にあるようには見えない。(無礼な感じがする)
この頃のプラトンは、『テアイテトス』を読む限り、ある程度の数学の教養を持っている。誰かから手ほどきを受けたのであろうが、いつ頃、どこでかは、筆者は知らない。(プラトンが適当に相槌を打っていただけか?)

Ball[8]:

After the execution of his master in 399 B.C. Plato left Athens, and being possessed of considerable wealth he spent some years in travelling ; it was during this time that he studied mathematics. He visited Egypt with Eudoxus, and Strabo says that in his time the apartments they occupied at Heliopolis were still shewn. Thence Plato went to Cyrene, where he studied under Theodorus. Next he moved to Italy, where he became intimate with Archytas the then head of the Pythagorean school, Eurytas of Metapontum, and Timaeus of Locri. He returned to Athens about the year 380 B.C., and formed a school of students in a suburban gymnasium called the"Academy." He died in 348 B.C.

ここでの旅行は、第一回目のシケリア旅行(1回目:388BC、2回目:367BC、3回目:361BC)を指していると思える[32]

「Archytas the then head of the Pythagorean school」と述べていることにも注目したい。二つの論点に分ける。

第一の論点に関しては、かくありなんと思える。head が居なければ統率がとれないからである。head が居たとすれば、彼らは head を決める方法を持っていたはずであり、(メールによる投票とは思えないので)方法としては: (a) head が 次の head を決めていた; (b) 何年かに一度の総会を開いていて、そこで head を決めていた。前者は不満が出る。派の結束を保つためには、後者の方法だろうか?
第二の論点に関しては、筆者は根拠を持たない。アルキタスの人望とか能力を考えての推測であろう。

なお、プラトンは独裁政治を嫌う一方、ポリスの民主政治の維持のためには、何よりも有権者の教育が必要であると考えていたようである。

ディオゲネス[9]を読むと、アテネ人は僭主たちには恐怖だったらしく、「入国」禁止令(違反者は死刑)もあったという。プラトンもこのために死刑にされそうになった。これをアルキタスが、僭主に手紙を書いて救ったのであるが、無敵の将軍として誉れ高いアルキタスの手紙は僭主にとっては恐怖であったろう。貴殿に懇願されてプラトンを派遣したのだ。プラトンの身の安全を保証すると貴殿は約束したではないか。それなのに貴殿は...

プラトンとピタゴラス派との親交は深い。プラトンはピタゴラス派の運営の方法を知っていたと思える。共同体のモデルとプラトンが考えるような運営方法が採用されていたと考えるのが自然である。

ディオゲネス[9]:

そこで、それ以後彼は、その時二十歳になっていたということだが、ソクラテスの弟子となった。そしてソクラテスが死んでからは、
...
それから二十八歳になったとき、ヘルモドロスの伝えるところによると、彼は他の何人かのソクラテス派の人たちとともに、メガラのエウクレイドスの許へ身を寄せた。その後、キュレネの数学者テオドロスのところに赴き、そしてそこからイタリアのビュタゴラス派の人びと、ピオラオスやエウリュトスのところに行った。
彼とはプラトンである。
この話はテオドロスの没年(398BC説)と合わない。またディオゲネス[9]の「プラトン」の項を読んでも、テオドロスがプラトンの師であったとの記述は見つからない。

テオドロスの没年(398BC説)は次の文献にある。
文献[30]:

Theodorus of Cyrene was a pupil of Protagoras and himself the tutor of Plato, teaching him mathematics, and also the tutor of Theaetetus. Plato travelled to and from Egypt and on such occasions he spent time with Theodorus in Cyrene. Theodorus, however, did not spend his whole life in Cyrene for he was certainly in Athens at a time when Socrates was alive.
この文献は(多分)文献[31]を基に書いているが、没年の処理を誤っている。

文献[31]:

Diogenes Laërtius states that he was the teacher of Plato; and Plato represents him as an old man in the Theaetetus, which is set in 399 b.c. Since Anaxagoras was born ca. 500 and Plato in 428 or 427, it is reasonable to suppose that Theodorus was born about 465.
...
He was in Athens at the time of the death of Socrates.
このページは出典が細かく注記されており、非常によい。

ヴェルデン

ディオゲネスはこの人[テオドロス]をプラトンの師といっている。
...
プラトンは主として彼[アルキタス]から精密科学とピタゴラス派の哲学の手ほどきを受けたのである。
注: [ ] は筆者による
まあ、このようなことはあるかもしれない。筆者も(先生よりも)友人から学ぶものが多かったから...

ヴェルデンの主張は(多分)次の点から来ているだろう:
シケリア旅行の後に、プラトンの著作に幾何学の話が現れだす(例えば『メノン』における正方形の倍積問題など)。
これはアルキタスの影響である可能性が高い。(幾何学を学んだというよりも、幾何学の中に自分の哲学に有利な素材を見つけた)
アルキタスの下で滞在していたと考えられるので、彼の哲学や、ピタゴラス派の組織運営の方法などを教えてもらったでしょうね。アテナイの「民主政治」の惨状に胸を痛めていたプラトンは、感動したのではないか...

ディオゲネス([10]p.204)の「アリスティッポス」の項にある次の言葉にも留意しておきたい。

テオドロスという名前の人は20人いた。... 第2はキュレネの人で幾何学者であり、プラトンがその講義を聞いた人。第3は、われわれが上に述べてきた哲学者。...
「われわれが上に述べてきた哲学者」は、その弁がたたってキュレネを追われアテナイに移住して、晩年にまたキュレネに戻ってきたソフィストである。この軌跡は「キュレネの人で幾何学者」の軌跡と一致している。ディオゲネスは別人物として扱っているが、同一人物の可能性について吟味する必要があろう。

「プラトンの師」の出処であるが、

「プラトンがその講義を聞いた人」 → 「the teacher of Plato」 → 「プラトンの師」
と化けているのですね...
そうだとすると、(400BC よりも前に)プラトンはテオドロスの講義に出席したことがあるという程度のことか?

7. 文献

[1] アレックス・ベロス (田沢恭子、対馬妙、松井信彦訳):「素晴らしき数学世界」(早川書房、2012)
ピタゴラスの定理の直感的証明法が載っている。

[2] ヴィクター J. カッツ (上野健爾、三浦伸夫訳):「数学の歴史」(共立出版、2005)
$\sqrt{2}$ の通約不可能性,直角二等辺三角形を基にしている

[3] 上垣渉:「初めて読む数学の歴史」(ベレ出版、2006)
ピタゴラスの定理の直感的証明法が載っている。
$\sqrt{2}$ の通約不可能性
プラトンの数学論

[4] E.マオール (伊里由美訳):「ピタゴラスの定理」(岩波書店、2008)
メソポタミア数学
ピタゴラス数
$\sqrt{2}$ の通約不可能性

[5] アルバット.K.サボー (伊藤俊太郎、中村幸四郎、村田全訳):「数学のあけぼの」 (東京図書、1977)
サボーは古代ギリシャ語と古代ギリシャ哲学に堪能だったらしい。この本は哲学的視点で『原論』にアプローチしている。
サボーの議論を読むに、サボーは数学者ではないので、ユークリッドの心を理解していないと思う。

[6] プラトン(田中美知太郎訳):「テアイテトス」(岩波文庫、2014)

[7] Plato(translated by Benjamin Jowett): “THEAETETUS”
http://www.gutenberg.org/ebooks/1726.epub.images

[8] Walter William Rouse Ball: “A Short Account of the History of Mathematics”
(Cambridge University Press, 1915, archive.org)

[9] ディオゲネス・ラエルティオス (加来彰俊訳):「ギリシャ哲学者列伝(上)」(岩波文庫、2013)

[10] ディオゲネス・ラエルティオス (加来彰俊訳):「ギリシャ哲学者列伝(中)」(岩波文庫、1989)

[11] ディオゲネス・ラエルティオス (加来彰俊訳):「ギリシャ哲学者列伝(下)」(岩波文庫、2014)
3世紀(AD)頃の著書
彼の読んだ当時の図書のメモのようなもの

[12] 無理数の発見の歴史
http://asait.world.coocan.jp/pythagorean/irrational/irrational.htm

[13] JOHN CASEY: “THE FIRST SIX BOOKS OF THE ELEMENTS OF EUCLID”
(Hodges Figgis, 1885, Project Gutenberg)

[14] T.L.HEATH: “THE THIRTEEN BOOKS OF EUCLID'S ELEMENTS (VOLUME Ⅰ)”
(CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 1908, archive.org)
Books 1-2

[15] T.L.HEATH: “THE THIRTEEN BOOKS OF EUCLID'S ELEMENTS (VOLUME Ⅱ)”
(CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 1908, archive.org)
Books 3-9

[16] T.L.HEATH: “THE THIRTEEN BOOKS OF EUCLID'S ELEMENTS (VOLUME Ⅲ)”
(CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 1908, books.google.com)
Books 10-13

[17] T.L.ヒース (平田寛、菊池、大沼訳):「ギリシャ数学史」(共立出版、2006)

[18] 高木貞治:「初等整数論講義」 (共立出版、1995)

[19] ヴィノグラードフ (三瓶与右衛門、山中健訳):「整数論入門」 (共立出版、1962)

[20] エウクレイデス (斎藤憲、三浦伸夫訳・解説):「エウクレイデス全集(第1巻) 原論 Ⅰ-Ⅵ」
(東京大学出版会、2008)

[21] エウクレイデス (斎藤憲訳,解説):「エウクレイデス全集(第2巻) 原論 Ⅶ-Ⅹ」
(東京大学出版会、2015)

[22] EUCLIDIS (中村幸四郎、寺坂英孝、伊東俊太郎、池田美恵訳、解説):「ユークリッド原論」 (共立出版、2011)

[23] 斎藤憲:「キオスのヒポクラテスと論証数学の発明」
http://greek-philosophy.org/ja/files/2013/03/Saito2013.pdf

[24] B.C.ヴィッカリー (村主朋英訳):「歴史の中の科学コミュニケーション」 (勁草書房、2002)

[25] 大矢真一、片野善一郎:「数字と数学記号の歴史」(裳華房、1978)

[26] ファン・デル・ヴェルデン (加藤文元、鈴木亮太郎訳):「古代文明の数学」 (日本評論社、2006)
第一級の数学者によるこの本は素晴らしいのであるが、偉大な発見には共通の起源が存在する可能性が高いとするヴェルデンの見解には全面的には同意しない。発見の易しさと実用的価値と世界的な情報流通のレベルなどが共通の起源の有無に深く関わっているからである。ピタゴラスの定理は比較的発見されやすく、実用的価値はトップレベルである。つまり多くの人々が直角に関心を持ち、面白い性質が見つかった場合にその社会(発見者が所属しているローカルな社会)で知識が共有され継承されやすいのである。

[27] ヴァン・デル・ウァルデン (村田全・佐藤勝造訳):「数学の黎明」 (みすず書房、1984)

[28] ブルバキ (村田全、清水達雄訳):「数学史」 (東京図書、1970)

[29] 村田全:「数学史散策」
http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/ramble-hm.pdf

[30] Theodorus of Cyrene
http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Theodorus.html

[31] THEODORUS OF CYRENE
http://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/theodorus-cyrene

[32] Wikipedia: プラトン
https://ja.wikipedia.org/wiki/プラトン